数秘術と宿曜 ケイサトウ

数秘歴20年&宿曜歴6年、数秘33のフォーチュンカウンセラーです

極めつけの「孤独」はどうなるのか?


こんにちは。


はてなブロガーさんでらっしゃる、やまぐちせいこさん の動画を拝見しました。






テーマは、「孤独について」。


やまぐちさんもおっしゃっていたように、確かに、何をもって孤独というのか?って、人によって意見が分かれるテーマだなと私も思いました。

とはいえ、なるほどなというお話が聞けてよかったです。


中でも。(記憶力が悪い上にうろ覚えで申し訳ないのですが💦)

東大の哲学科のご出身で、山奥に小屋を建てて数年一人で生活してらしたかた(ブロガーさんで作家さん)が、ある日、「このままではいけない!」という強烈な衝動に駆られてそこを飛び出し、今では賃貸のお部屋を借りて暮らしてらっしゃる、というくだりは、私もこのかたと似たようなことを考えていたことがあったので、自分だけじゃなかったんだってちょっと安心した、と申しますか。



ある日突然、自分と同じ(生活)空間に、他の人も一緒に「いる(存在している)」という気配がまったくない状態であることに気づいた時、私も、軽く衝撃を受けたことがあります。



もちろんそれでも、食べて寝て動くことはできるので、生き物ととして生きてはいけます。
けれど、それだけでは人って(私って)生きてはいけないと、思ったんです。
それでは野生で暮らす動物と一緒で、人間とはいえないなと。



周りとの付き合いや接点がいっさいないということは、何かがあってもすべて自分の中で処理をする(理解したり納得する)だけでいいので、こうなると、自分の中だけで同じことがループして完結していくだけの、完全「マイワールド」化に。


そうして、理性も知識も感情もどんどん低下してゆくし、自分が正常なのかそうでないのかもわからなくなる(狂気)という怖さにその時気づきました。
そうなると、怖いというより恐怖かも。
「このままじゃマズい!! 人としてダメになる。 この先社会に溶け込めなくなる!!」とも。

急いで山を下りた時のブロガーさんと一緒のことを、私も思いました。



かつて、アリストテレスが、「人間とは社会的動物である」と言ったそうな。
確かに、動物の世界には、仲間との交流や芸術文化といった知的活動も習慣もありませんものね。



今の世の中って、多くの人が、人づきあいの難しさを感じている気がします。
そして中には、あのブロガーさんのように、人けがない場所で自分一人で完全な自給自足生活を送ろうとされている人もいらっしゃる。


それは、そうした方が心豊かで穏やかに暮らせるのでは?、人間らしい生き方ができるのでは?と期待をされてだろうと思います。

けれど、現実にはそうじゃない。

むしろ人間らしさからかけ離れていってしまうと私は思います。



遠い昔に行われた、心理学では有名な実験の話を思い出します。

孤児の赤ちゃんに、生き物としては最高の環境を与えつつ、そのお世話をする人たちが、赤ちゃんと目を合わせたり触れたり話しかけないようにして育てた場合、その子たちはどうなるのか?
結果は残酷なもので、早い段階から、そして結局成人を待たずして全員が亡くなってしまったのだそうです。


ということは、究極で、たとえどれほどひどい仕打ちをされようとも、それでも人は、わずかでも、他の人間と目を合わせながら会話をし、触れ合うことができれば、生きられるんだろうと思います。
長生きできるかどうかは別として。



***



そこで、私は、孤独って、心細さでしたり人恋しい感情が湧いている時のこと、なんじゃないかと思うんです。


物理的な距離に関係なく、こちらから連絡を取ればいつでもつながれる人が、一人もいない。
そしてそれは、自分にどれほどの地位や名声があり、お金持ちで、健康で、美人かどうかなんて関係ないこと。


心細くて寂しくて哀しくて。
今自分が抱えている想いのたけを吐き出すかのようにして、誰かと語り合いたい時、(それにふさわしい)相手がいない。


みんながどんどん先を行って、でも自分一人だけ、無視されて、取り残されていく感じ。


そうした心の繋がりがない時(も)、人は孤独(を覚えるん)じゃないのかな?、なんて私は思います。



もちろん、ネット、テレビもあります。
でも、その "接触" は、あくまで一方通行です。
画面の向こうにいる人と自分が、直接つながれるわけでもありません。
ましてやこちらのことも知りません。
それでも、これらすら失って、完全に社会から断絶された時、果たして私は正気を保っていられるだろうか?と思ったんです。
実際、あり得ますよね? 災害が起き、それらが使えなくなることはあります。



あのブロガーさんのように、自分の平和や幸福=満足のためだけに生きるようとすると、それでは物足りないし、つまらなくなる(笑
人のぬくもりや気配に、飢餓感すら覚えるようになる。
(病気やケガや事故に遭った際の心細さや不安とは、別物と私は思います)


反対に、誰かに喜んでもらえたり、感謝される、つまり「あなたがいてくれてよかった」「私にはあなたが必要です」と思われると、嬉しいのですね。
それまでは無視されていても、そのことがきっかけで、その人に、自分のことを意識したり一緒にいようと思ってもらえるかもしれないし。

一時的であっても、孤独な状態からは遠ざかれますね。




またやまぐちさんが (ほかのかたがたのご意見として) おっしゃっていたように、孤独には良い面もあると思います。

が、私的には、そうしていられる孤独には、まだ余裕がある気がします(笑



究極な(本物の)孤独は何かと聞かれたら、私は、あの、山に数年一人でこもったブロガーさんのような精神状態じゃ?って思うんです。
生き延びられるかどうか?より、「正気でいられなくなりそうなことへの恐怖」、と申しますか。


それを知れば、人や社会と関わりながら生きていくのがどれほど辛くてしんどくても。
それだからといって自分から安易につながりを断ち切って、究極の孤独になることとを秤にかければ、前者のような生き方のほうが全然天国でマシと思うんです。
愚痴や怒りや文句に代わって、「あぁ。これって貴重だな、ありがたいな、うれしいな」って喜びや感謝のほうが自然に湧いてくる。

そして、喜びや感謝が多い暮らしはとても心地よく、楽しいしラクです。生きづらさもなくなります。



なんて断言できるのは、2年前に、腰のケガで身動きが取れなくなり(入院もできなかった)、しかも身寄りも近くに頼れる人もいない生活をしばらく送っていたから。

元通りに戻って普通に生活できるようになるのかどうかもわからず、不安で心細くて。
「もうダメかもしれない」と、絶望的な気分になりました。


それでも生きながらえたのは、まずは、県外に住む親友のおかげ。
次に、ネットスーパー他、必要なものを運んでくれた人たちや、後日通院でお願いした介護タクシーのかたがた。
週に一度でも、たわいもないやり取りができただけで、ぱぁっっと気持ちが明るくなり、元気が出ました。


他にも、歩くのもやっとな自分ではどうにもならないことがあって、近くに住む知人に無理を言ってその用事を頼んだら、飛んできてくれて。
あの時も、彼女たちの顔をみた瞬間、ほっとして、心が緩んで、ありがたくて。
自分の惨めさやふがいなさなんてもうどうでもなく、人目をはばからず、泣きました。
そしてあの時ほど、「実は人を生かすも殺すも、人なんだな。つながりかたなんだな」と痛感したことはありませんでした。


大げさに見えるかもしれませんが、実際にご自身で経験してみなければ想像もつかないことと思います。
ただ、こういう経験(失敗)は、できれば、しないほうがいいですよ、本当に。



「喉元過ぎれば熱さを忘れる」

元気になった今、つい、忘れがちな、「わたしって実はこんなにも恵まれていて幸せだったんだ!?」という気づき。

思いださせていただいたやまぐちさんには感謝です ^-^



***



最後に、お知らせとお礼です。


数秘術と宿曜の note ですが、おかげさまでこれまで、のべにして、100名以上のかたにご購入いただくことができました。
心からお礼申し上げます。

ありがとうございました!


自分が書いた記事が、まさかこんなにたくさんのかたに買っていただけるとは夢にも思っていなかったので、びっくりしています。


特に『31の誕生日リーディング』のマガジンは、これからも時間が許す限り、加筆修正してゆくつもりでいますので、今後また思い出してくださった時にでもご覧いただければと思います。



note.com



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