数秘術と宿曜 ケイサトウ

数秘歴20年&宿曜歴6年、数秘33のフォーチュンカウンセラーです

さびしさが自分を成長させてくれる 『大河の一滴』


こんにちは。

やっと読み終わりました。



大河の一滴




読めば読むほど新しい発見や気づきがあって、本当に面白かった!です。


しばらくしたらまた読んでみようと思っています。
こんどはじっくりと時間をかけてていねいに。

おそらくこの本は何度読んでも飽きない気がします。
私の中では、アミの本以来のヒットでした。


中でも「寂しさとの付き合いかた」 について書かれていた箇所が私にとっても印象的でしたので公開メモしておきたいと思います。

ここは、五木さんがかつて倉田百三さんの『出家とその弟子』という本(戯曲)を読まれた時に「とても印象に残った」部分だそう。
わかりやすいよう五木さんが要約してらっしゃいます。



登場人物は、親鸞とお弟子さんの唯円です。(唯円は歎異抄の編者です)


p259


唯円と親鸞とが、どこかで外を眺めながら短い会話をしている場面があります。

唯円がぽつんと親鸞にこんな風に言います。


「お師匠さま、私はこのところ、なんだかさびしい気持ちがしてならないのです。
ときどきぼんやりいたします。
こうして道を歩いている人を眺めていても、なんとなく心がさびしくなってきて涙がこぼれたりする。
こんなことでよいのでしょうか」


そして親鸞はこんな風に答えます。


「それでいいのだよ、唯円、それでいいのだよ。
さびしいときはさびしがるのがよい。
それしか仕方がないのだ」


「それじゃ、お師匠さまのようなかたでも、さみしいなんていうことを、お感じになるときがおありなのですか?」



信心の定まったあなたのように立派なかたでも、さびしいなどという気持ちになることはおありなんですか?とたずねるわけです。

言葉は正確ではありませんが、説明的に勝手な言葉をつけくわえていいますと、つまりこういう内容のことです。



「私もさびしいのだよ。
そして私は一生さびしいのだろうと思っている。

だが唯円よ、おまえがいま感じているさびしさと、自分が背負っているさびしさとはちょっと違う。

おまえのさびしさというものは時間がたつとふっと通りすぎていくような、ある意味では対象によって癒されるさびしさなのだが、自分がいま感じているさびしさというものは、骨身にしみわたるような深い重いさみしさなのだ。

そして自分は一生このさびしさを背負って生きていくのだろうと思っている。

おまえもいずれ、そういう本当のさびしさというものが理解できるようになってくる、それを感じるようなときがくるであろう。


唯円よ、そのときにはそのさびしさから逃げようとか、そのさびしさをごまかそうとしてはならない。
自分を欺いたりしないで、そのさびしさをまっすぐに見つめ、その自分の心に忠実にしたがえばよい。
なぜならば、本当のさびしさというものは、運命がおまえを育てようとしているからなのだよ」



言葉は正確ではありませんけれども、そういう意味のことを親鸞は諄々と唯円と言う若い弟子に語ってきかせるのです。


おまえもきっといつか本当のさびしさを感じる時が来るであろう。
そのときにはそのさびしさから逃げるな。
そのさびしさをごまかすな。
適当にやりすごすな。

きちんとそのさびしさと正面から向き合って、そのさびしさをしっかりと見つめるがよい。

そのさびしさこそは運命がおまえを育てようとしているのだから、


という風に親鸞は答えるのですが、弟子の唯円と親鸞という先輩との、心の通いあいが感じられるような対話です。




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